曖昧さは悪であり厳密さは正義である

仕事をしていて、自分には人を巻き込む力がないと思うことが多い。

人を巻き込む力というのは、例えば「何かを集団でやろう」となったとき、経験上、自分は集団の中では「やるぞ!!」度合いが高い側にいることが多いのだけど、集団の外の人や集団の中の「やるぞ」度合いがあまり高くない人を、いい感じに巻き込んで、集団のパワーで何かをやっていく、そういう力のことです。

大学で数学の研究をしていた頃は、基本的に一人で何かをすることが多く、集団=僕一人なので、僕自身が「やるぞ!!」となればそれでよし、となっていたし、大学で研究をやっている人というのは、誰しもが大体「やるぞ!!」という感じだったので、人を巻き込むということをあまり意識することはなかったと思う。

今は会社でサラリーマンをやっており、段々とこれが自分の欠点なのだなぁと思うようになった。

数学の世界というのはとても特殊で、基本的に曖昧さに対してとても厳しい世界だったと思う。 数学で扱う対象というのはとても抽象的で、そういうものを人々が同じように認識するためには 厳密性が不可欠であるからだと、僕は思っている。

そういう世界でそういう価値観なので、理解は深ければ深いほどいいし、「理解している」という状態に対してある程度線引きができたと思う。 物事の仕組みがわかるというのはとても愉快で、自分が数学をやっていたのは、理解するのが楽しかったからではないだろうか。

2年前に、この厳しい世界で生き残るのは無理だと思い、アカデミアを辞めてエンジニアになった。エンジニアを選んだ理由はというと、たまたま知り合いがエンジニアで、その知り合いの知り合いたちが集まっている場に自分もいて、遠巻きに見ていて、彼らの雰囲気がどことなく数学者に似ていると思ったから、という、なんとも曖昧でフワッとしたものなんだけど、結果として、その時の直感は結構当たっていたと思う。

彼らは選択している。私は敗北している。

というのは あの日チャールズ・リバーで - 傘をひらいて、空を の一節で、人生で選択らしい選択を試みたのは、このときが初めてで、敗北になるか選択になるかということをずっと考えていたのを覚えている。

2年経って、ある程度仕事には慣れたし、今後もエンジニアとしてやっていきたいなぁと思えており、「仕事を変える」という選択はどうにかできたのかなぁと思う。それで、次は「仕事をやっていく」フェーズになるのだと思うのだけど、それについては最初に書いたように、人を巻き込めないなぁと思うことが多い。

多分だけど、「適当なことを言うと斬りつけてくる」みたいな雰囲気を出してしまっていて、それは記事のタイトルのような価値観に由来するものであり、自分にとっては根深くなかなか曲げることもできないので、次の2年くらいでどうにかなるように、選択していきたいという気持ちです。


転職エントリというやつを書いてなかったので2年遅れで書きました。